2011-03-03

Ti(2013)





結論として、二〇一一年に佐伯俊之は蒸発する。月が一つしかない世界から。この佐伯俊之という名前は戸籍交換によって得たもので、彼にとって二度目の経験となる。その名前を持っていた人物の行く末を彼は知らない。もはやどうでもいいのだ。ただ、以前まで使っていた戸籍のもとの持ち主がなにか事件に巻き込まれていたらしい。どこからどのように語ればいいのだろう。その瞳の奥にいる男について。二〇一一年一月、俺はこの男の希望からともに美保関灯台へ出向き、晴れた海上で薄らと浮かぶ隠岐諸島を展望しただろう。彼の瞳はそこに竹島を見ていたはずだ。隠岐諸島から竹島を見ることはできない。そこにある韓国との国際問題とは直接関係なく、ただ彼は海上国境線をできるだけたやすく夢想したかったのだ。遠洋である竹島へ、韓国の鬱陵島から回り込むような手続きをわざわざとらずとも、夢想さえできればよかったようだ。美保関から竹島に近い隠岐諸島を見る一泊の旅行にでかけたが、竹島でなくとも、海上国境線に近い場所であればどこでもよかったはずだ。フランス人技師による白亜の灯台そのふもとにある赤い屋根のビュッフェでくつろぎながら、満足したのかよく分からない彼の顔をそっと覗き込んで、澄んだ空気を吸い込み、俺は口にしたい言葉を幾つも飲み込む。ここまで行動しておきながら逡巡している自分に苛つく。俺はきっと、二十代半ばの頃に二年間の結婚生活を送ったものの男への欲望を断ち切ることができなく、抵抗を重ねればそれだけ言動が極端に裏返り、どうしようもできなく路頭に暮れ、結果独身になったバイセクシュアルで、あのとき、目に映る世界は引き裂かれ、そのまま時間だけが手許からこぼれ落ちたように。その再来をこのビュッフェでカフェをしている間も怖れている。彼のからだを俺は幾らか知っている。そこに物語はなく、快感と、堕ちた幸福と、やがては儚い快楽が待っている。どこまでも続く反転したユートピアのように。そして、彼が本当は同性愛者ではないことも。この事実は彼の肉体を立体化させ、血が脈々と流れていることを知らせ、細胞さえ呻いていることを予感させる。それは本当は知らなくても良かったはずのことだ。境界線上で、足場が崩れたのだ。初めて出会ったときに見た名前、アキトと、俺は彼のことを呼んでいる。あとで佐伯俊之という名前を知らされたが、彼はその名前にまったく似つかわしくないし、のちに判明したようにそれは彼の本来の戸籍ではなかったのだから。

では、この佐伯俊之という名前を彼に渡した男がどういう人物であったのか。それを知る手がかりはなかったし、二〇一一年三月まで気にもしていなかっただろう。そのような言い方は間違っているのかもしれない。情報がなく考えようがなかったのだ。白い灯台の入り口は閉ざされ、石造りの壁面に凭れながら冷たい風を浴びて、波の音を聞き、水平線を眺める。若干の高台にいるとはいえ四キロメートルを少し越えた程度のその境界線に国境があるはずもなく、しかし、空と海との境はあって、それが休みなく変化している。彼の口から戸籍交換をした過去を聞いたのはこのときだ。そのときに俺が思ったのは次のようなことだ。アキトは源氏名で、佐伯俊之は三年前に戸籍交換で得た名前で、じゃあ、彼はずっと遠くにいて、指先で触れることすらできないのかと。吹く風によって散る髪からちらちら見える口元より、聞こえてきた言葉、以前は渕東優希という戸籍を持っていたけれど、それも十年前は他人のものだったと、それから沈黙。その見た目の若さほど彼はもう若くないのだということを彼自身知っているのかもしれない。彼は節目にいて、三年間住み込みで働いていた場所がなくなることに脅えているようだ。それを元気づけるために俺は旅行しようと持ちかけたのだが、想像よりもずっと深刻で、灯台からそれほど離れていない老舗の有名旅館で温泉に浸かっていたとき、彼は呟く。もう、逃げ場がないかもしれないと。これについて詳しく聞いたのはあとになってからだが、よくある歳の問題ではなくもっと本質的かつ具体的なことを彼は口にしていたのだ。なぜ人は蒸発するのか。彼は断ち切るときにすべてを棄ててしまわないと納得できない性質に違いない。湯船に沈んだままなんとなく揺れる彼のからだを愛おしく見つめる。ひのきの貸し切り露天風呂に差し込むたった一つだけ浮かぶ月の灯り。それと湯気との狭間に溶け込んで、消え入ってしまいそうな。だから俺は右手を伸ばしそっと彼の指先をつかむ。皮膚の奥の硬い骨を感じる。金銭を挟んでその細い肉体を初めて抱いたときの、心地のいい幻想的な体験はもはや彼の告白によって何の神秘性もない。熱く固まった性器同士をすりあわせてそれらを包むように握りしめ、強く彼のからだを抱き締め、激しくねっとりと舌を重ねあわせたまま、二つのからだが水銀と水銀がくっつくように交じりあってそのまま一個の透明な粘土のように堕ちていきかけた記憶。明かりなく真っ暗な旅館の一室で寄せあった二つの布団のなかで、性行為をすることに躊躇っている。結局はこの晩も、互いの精液が静かに低い放物線を描いたのだが、そこに至るまでに佐野涼の話を聞いたのだ。彼が佐伯俊之という名前を得てアキトとして仕事を始めるよりも前、渕東優希という戸籍を持っていたときの、もう一つの名前。彼は出身地の北大阪とともに関西弁を棄てて東京でアマチュア写真家の名義を佐野涼としたらしい。若くして父を亡くし、母から得た一千万の手切れ金で二年間モラトリアムに暮らし、百万を切った頃に渕東優希と出会ったという。お互い二十歳をすぎたばかりの頃。戸籍を交換し、七年が経ち、佐伯俊之と出会ったのだ。真っ暗なまま目が慣れることもない旅館の一室で、俺は未知の恐怖が脳裏によぎる。この見た目ほどにはもう若くない男の過去をすべて与えられたあとに俺自身の戸籍が失われてしまうのではないか。そして、彼のもともとの名前は何というのか。暗闇のなかでただただ聞き手のままで、喉まで出かかっていた質問の答えが返ってくることに対し、俺は怖れたのだ。アキト、と俺はいう。きみと違って、佐野涼はカメラを持ち写真を撮っていたんだね。涅槃のような七年間、彼は尽きかけていた生活費を稼ぐための仕事と、ただ一人の恋人との直接的な時間以外、選択肢が見出せなかったのだという。インターネットもテレビもなく、ラジオも新聞もなく、あるのは気候であり、湿度であり、時折訪れる恋人との平行線的なセックスはかつてに行われた交換の追体験であり、すでに世界は完成している。性的幻想のさなか。恋人女性の服を脱がしその相手が身の回りにつけているだろう様々な文化やあらゆる関係をアンダーウェアと一緒に脇へやって、言葉を交わさず、吐息だけの、そして、身近な匂いを兼ね備えた暗闇のなかで、似たような肉体二つにまで還元されたその瞬間、ふっと幻想の只中へと飛び立つ。部屋にはオーディオ機器の一切がなく、本や雑誌もない。さっき立ち上がって横切った恋人が全裸のまま小さな炊事場で持参のシナモンティーを二つのカップに注ぐ。男性ヴォーカルの和製R&Bを口ずさんでいるが、佐野涼にはそれが誰の歌なのかが分からない。ただカメラだけがテーブルの上にある。そしてときにそのレンズを恋人へ向けて、被写体はフレームを通して天使となる。空漠と幸福と。なにか哀しみを生きていてその途方もない現実をささやかな夢でもって覆い尽くしてしまうことの共犯者になってほしい、そんな眼差しを静かに了承し、佐野涼はかつて女を恋人として迎え入れたのだ。天を舞い光っている埃。夢は似る必要などない、似せ始めたとき個人の世界は規格化する。ある場所を失い、蒸発し、そのまま別の場所へ行くこともない。自殺的だが、生き、満たされていた佐野涼の世界に突如崩壊の兆しが訪れたのは七年目の九月だという。

暗闇で生きる誰もが日の光を夢見、それが原理的に不可能であることを知って閉ざされた楽園を築く。

探偵の監視を受けていることに気づいたと彼はいう。シャワーを浴びようと服を脱ぎ入った浴室でふとやり残していたことに気づいてカメラの側まで歩いたとき、窓から見える自動販売機の側で一人の男がシリアスな面立ちで携帯電話をつかみ背を向けて慌てている様が見えたのだ。彼は、急いで簡単に服を着込むと外にでて男に近づいたが、その行動に一切男は気づかなかったらしい。電話で話す男の声は段々荒くなっていった、と彼は続ける。気づかれる前に曲がり角に消え、そのまま近くのセブンイレブンまで歩いたという。それで今、旧事務所は? その台詞のあとに男が口にしたのは、それで渕東優希がいて捕獲したんですね、そんな言葉で、始終冷や汗が止まらなかったという。彼は恋人に電話をかけ、急に母に呼びだされたので数日東京を離れる、また連絡する、という旨を告げる。実際東京を離れたわけではない。台東区のネットカフェを転々とし、それが佐伯俊之と出会うまで続いたのだ。俺は、暗闇のなかで話を聞きながら、彼の肌に手のひらを這わせ、まだ充分に瑞々しさがあるその感触の向こう側、緩やかな心臓の鼓動に自らの意識を合わせようとする。とても息苦しくて室内にたった一つしかない月の明かりを差し込ませ、月光で切り裂かれたかのような彼の姿を見下ろす。膝つくようにしゃがみ込んで口づけをする。舌を吸い、その唾液を何度も確認する。彼が涅槃のように暮らしていたのは母を憎むからだと聞いたことがある。現代社会、この日本のあらゆる消費物が母を連想させてしまうのだと。彼にとって母は許されざる存在であり、それにまつわるすべてのことを排し切った人生を歩まざるを得なかったのだ。今思えば、彼が身売りをすることに奇妙な安心感を得ていた理由は、母に関する事柄から完全に切り離された世界であったからなのかもしれない。明け方、俺は、展望大浴場へ行こうと告げる。浴衣を着込み並んで廊下を歩く。宙に浮いているかのような彼の足取り、揺れるような影。ひっそりとした脱衣場で一枚の着ていたものを脱いだとき、彼が浴衣をはらりと落とし、その細い線の美しさに時間が氷る。

膝下ほどまで湯に浸し、冷たい空気を肌に感じながら、日本海の向こう、中国山地を視界に入れる。あのときの記憶も、彼がこの世界から蒸発してしまった今では空虚のようだ。俺は、二つの思いに囚われ混乱している。そのままアキトを忘れてしまうべきか、それとも彼の実存に思いを馳せるべきか。どのようにしてアキトの蒸発を俺が知ることになったのか。そのとき、初めて俺はアキトの出生時にあった戸籍の名前に出会う。沼地に築かれた迷路にまよいこんだかのように。涙混じりで疲労した足を泥にとられ為す術なく立ちすくんだとき、頭上から四つの月の異様な明かりが差し込んだのだ。アキトはおおよそそのようにして消えていく。現れた男はアキトにはじめましてと告げつつ自らの名前が彼の本来の名前であることを伝えたが、それは偶然ではなく、法的操作でもなく、恐怖に近い。男の瞳には異空間の景色が漂っている。分厚い雲に覆われた夜の山下公園、ライトアップされたマリンタワーの麓で、俺は二人の対峙を前に自らが抱える二つの性の対峙を重ねあわせたはずだ。海の香り。遠くの喧噪。ついさっきまで現実味を帯びていたはずの口のなかに今もあるラーメンの微かな味。目の前には二人の西村清文がいるのであり、決して一つになることがなくパタッと倒れる俺自身の実在とともにアキトという虚像は海風に流され遠く塵となり散逸する。闇のなかにより濃い球状の闇が揺れ、一人の西村清文はそのなかへ消え、もう一人の西村清文は俺に電話番号が走り書きされたメモだけを渡し駅の方へ、人混みに消えたのだ。

福島県の沖合で巨大な地震が発生したのはその翌日のことだ。だが、俺は当然そのような翌日の予知をしたわけではなかったので、マリンタワーの鮮やかな照明のもとで一人、手渡されたメモを握りしめたまま、冷たい風すら気に留めず、言葉を失い、放り込まれた抽象的な夢のなかで、壊れていく意識に身を委ねていただろう。少し前の記憶、あの美保関での幾らかの情景、聞かされた告白、肌を重ねあわせた時間。遠く、境界線を展望した日。俺は、アキトという男が誰だか分からなかったゆえに共鳴し、それと同じ理由で助けられなかったのだ。心臓に刃が深く突き刺さりどす黒い血飛沫が、そのような自身の光景から逃れることを考え続ける。あのときの恋人。その前の恋人。あのとき買った男。あの場所で出会った女。初恋の女。初恋の男。離婚した女。さまよい尽くした果てに出会った静謐とした男、アキト。彼の実存について考えることは自らの悪夢を鏡越しで見ることに似ている。俺は頭を振って、一連の世界からの逃避を望む。例えば、ドッペルゲンガーのごとき遭遇によって死のカードが手渡される等。手のひらにはしかし紙切れが汗でしめり、少し離れた闇には少しずつ萎んでいくより濃い球状の闇が浮かび、さよなら、ありがとう、と言った彼は、もう隣にいない。向こうになにがあるのかを現れた男に聞いていただろう、その先には月が四つ浮かんだ別の世界が広がり、ここで生きる者たちが少しだけ違った状況で生きている。きみと交換し西村清文という戸籍を持っていた男が何年も前にそこへ消えたのだと。四キロメートルを幾度繰り返しても水平線が続くだろう闇夜に沈んだ海へと続く山下公園に背を向けて、俺もまた人混みに消える。酒を飲む気にはなれない。とっていたホテルへ一人で向かったとしてどうするのだろう。すでに二時間は経っていたかもしれない。俺は携帯を握りしめ、メモにある番号を押す。

あのとき現れた男は肩ほどまで細い髪があり首にゴム製のネックレスをさげていて終始敬語だったがどことなしかその言葉に神戸弁が混じっていたように思われる。着信は繋がらず、中華街でふいに立ち止まり、周囲で止まらず歩み行く人々を眺める。アキトは数日前に俺の部屋で、もっと若かったときの記憶を口にしただろう。インターネットを介し失踪願望を持つ者たちばかりが集まるサークルのオフ会に出席し、自らの世界を持て余した男女たちばかりでテーブルにある食事に誰も手をつけようとはしない。手際よく失踪にまつわる情報を主催者がギラギラした目で語る。空気は重い。大半が若者であった出席者、そのたまたま側にいた同年代の男、渕東優希に彼は戸籍交換の話をしたのだ。彼と同様上京するつもりだという。彼の自己紹介を受けたその男はそれが自分の名前になるのかとでも思ったのだろうか会話の端々に漂う張りつめた空気の只中で心臓を押さえつけている。上京後ちょうど一ヵ月住んだのちに戸籍やその他とともに部屋を交換しあう条件を前提に各々住居探しをし、交換しあった後は一切連絡を断ったという。だからその男が以後どのように暮らしていったのかは分からない。だが、不気味な事件に巻き込まれたのだ。彼のもとにまでその影響は現れ、のちに出会った佐伯俊之という男とさらに戸籍交換をしたにも関わらず、彼は、アキトは、ついに蒸発した、この月が一つしかない世界から。一連の事件に関わる西村清文という名の持ち主は現時点で四人いるという。俺は嘔吐しそうだ。立ち尽くしたまま空を見上げ、分厚い雲で空が覆われているのにまるで豪雨の気配すらなく、向こうに見える角を曲がればもう一人の自分が立っているのに違いないと恐怖に震える。濃い闇に、さっきまでともにいた男が溶けるように消え、いなくなったのだ。信じたくはない、が、突然現れた男はその闇からやってきたのだ。そのような世界に足を踏み入れた俺は、偶然ではなく、むしろ落ち続けることを望み、そのままそこに立ったのだ。その場所でアキトを失い、この次に自分自身と出会わずして死以外の何が残るというのだろう。中華街で立ち尽くしたまま扉を幻視し手のひらを当てている。少しでも力を入れれば。振動があり、遠くで音が聴こえ、徐々にその音が近づき、手許からで、俺は気づく。

着信を受けてどのような声が聞こえてくるのかじっと静かに待つ。やはり神戸弁を思わせるイントネーションで、電話、くれてました?という声。少しの会話と明日の夜に落ちあう約束を交わし、それによって救われ、俺は朝までホテルで眠ることができただろう。しかし、三月十一日の夜、俺はその男と再会することはなくずっと前に離婚した女とのやりとりで時間を奪われ、千葉に住む両親のもとまで車を走らせることになる。たった一日で現実世界が変化したのだ。俺はそれから何日も自我を忘れ、振り回されるように日々を送ったのだ。太平洋プレートと北アメリカプレートの境界線で起きたことが現実にもたらした津波、原発に関すること。あの男からのメッセージが留守番電話に吹き込まれていたことにすら気づかない。落ちあう予定だった日、こことは違う何かが向こうでも生じたらしくアキトの行った世界へ自分も戻る、佐伯俊之という戸籍を渡し渕東優希となった男に会いたいならここへ連絡を入れろという内容。数日して東京で福島に住んでいた親戚一同と合流し喧噪のなかアキトを完全に忘れただろう。彼はこの月が一つしかない世界からすでに蒸発している。向こうのことを俺はなにも知らない。横浜のホテルでただ眠りを待った死の時間は心の片隅で今も眠っている。明かりの消えた東京の街並み、幾日経っても止まることなくますます規模が膨らんでいく脱原発の運動、だが、俺は営業していたクルージングスポットで男を抱く。突然連絡がくるようになった女と室内で巣を作る。そして311以後と語られる情況に巻き込まれながら、多くの時間を仕事に費やす。無心で。

佐伯俊之のことを語らなければならない。佐伯俊之は、蒸発していない。俺は、アキトにその戸籍を渡した男をそのまま佐伯俊之と呼びたい。彼とは一度だけという約束で新橋の洋風居酒屋で落ちあったが、それは夏真っ盛りの季節だ。四十代半ばと思われるその男はクールビスも伴ってはだけているシャツの奥でゴールドのネックレスが光っている以外に装飾品はなく、顔立ちはいいがトカゲのような眼差しで、小ジョッキを口にしながら煙草をふかす。はきはきしているにも関わらずどこか夢うつつの声色で、ゲイでもバイセクシュアルでもないからきみがいうアキトとは何の関係もなく、そもそもアキトの性について何も知らなく、ただ戸籍交換を持ちかけられて面白そうだから受けてみたといった内容を、ナンパ箱でいい女を見つけたから口説いてみたとでもいうかのように話す。俺は、アキトを愛していた、まだ、どこかで生きているはずだが、死別に近いかたちで失ってしまった、と口にする。戸籍交換をする気持ちとはどういうものなのか、尋ねたとき、男のネックレスにタウ型の十字架が刻まれていることに気づく。男が次のように話しはじめる直前、指先が触れるのを見たのだ。物心つく以前から、ずっと夢に寄り添って生きてきた、若かりし真剣な結婚が茶番で終わったとき、強大化し、それ以来、同じように生きていそうな女を探し歩いたが、誰にも期待しなくなり、適度な距離で独身ライフを送るようになり、仕事もフリーに切り換え、どうせなら夢のなかで生きてもいいかもしれないと思ったのさ、そして、夢、いったい何だと思う? それは。沈黙の最中、俺は当然、自身の性の二重性について考えていただろう。将来の夢などと語られる類いの夢ではなく、眠りのなかで見る夢に近い。人は覚えていなくても毎晩夢を見る。それらは独立した内容だ。男のいう夢とはそれらがすべて繋がり一つの世界を築いているような話だ。宗教やオカルト、思想にも関連する話だろうか。男が告げたのはこういう話だ。いつか出会うかもしれないと期待し続けて夢の中での俺はさすらい続ける。およそ不老であるかのようだから数百、数千の、確かに恋愛と呼べるかたちの繋がりを重ね、失望を継いでいく。そこでは、四つの月が空に輝き、天使が降る。そう語る男はつねにそのような世界を瞳に入れながらこの現実の世界を生きていたが、三年前、アキトとの戸籍交換をしたことで解き放ったのだという。佐伯俊之が佐伯俊之であるための夢を、男は戸籍とともに棄て、戸籍とともにこの現実の世界で拾ったのだ。不老のごとき非現実の事象は得られないとはいえ、独身であり続ける決意自体が積み重ねる失望に等しい。

新橋で男と別れ、俺は繁華街の只中で喧噪漂う暗闇を仰ぐ。

民主党がつかみどころのない政治を続ける秋、俺は日本での同性婚実現のために活動しているリブ団体と交流を持つようになり、そこで知りあったバイセクシュアルの女と仲睦まじくなる。性的関係はない。この世界は未知で、俺は個人ではなくなっただろう。ただ自らが生きているこの世界が未来へと引き継がれていくことに苦心する大勢のなかの一人となり、やがては脱原発運動をする者たちとも話をする機会を増やし、神の国で、神々の国で、はじめに与えられた名前を傍らに置き、命を仰ぐのだ。そして、あるとき出会った男と恋に落ちる。瞳に映る世界をもう一度、回転させてみたくなったのだ。






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